六花ちゃんおめでとう!はい、最終回でしたねー。
自転車2人乗りとか、夢とキボーにあふれすぎて、ああん、もう!
六花ちゃんが死んだパパに別れを告げるのが今回の見どころで、それは絶対的に正しいのだと思います。
あのシーン。
もう彼女らの中で、中二病は絶対の地位を失っていて、だからこそ、遠い船の光を、
中二病という演出が重なって、境界線の向こうからの大いなる光に見えた。
妄想から奇蹟へ昇華することができる。
中二病なら「当然起こり得る」ことでも、それが必然性を伴わない口上の演出だってわかってたら、それは「奇蹟」でしょ?
ここには認識の差異があります。父親の事から目を背ける絶好の口実で、世界を形作る要素だった中二病が、現実を刺激を与える、現実をしのいでいく、ちょっとしたスパイスにまで地位を落としているのですから、六花の中で、現実が無視できなくなっているわけです。
人は現実と折り合いをつけていかなければいけないのは自明の理で、そういう意味では、中二病をうまく現実の中に折り込むことができたのではないかな、と。
中二病を後生大事に抱えるものでなくて、時折取り出しておひさまにかざして眺めてみる、そういうものにできたのではないでしょうか。苦しい時、辛い時、そういう時に眺めて、自分に活を入れられる、そういうものに。
簡単に捨てられなくて、持て余していた六花の中二病は、かように劇的な奇蹟を経て、劇的であるからこそ、現実の中に折り込めた。
劇的じゃなければ、あの状態の六花なら余計に諦観を深めてしまいそうですもの。
まさに奇蹟。
そして、今までの中二病で覆われた現実でもなく、中二病なんてくっだらなくてお父さんのいない辛い現実でもなく、中二病を「それもアリだ」と思えるような現実に生まれ出でたわけで。
お誕生日、おめでとう。
さて、一方で気になる部分もあるんですよね。
なんというか、中二病ってそんな大層なものじゃないんじゃないかなーっていう経験論が、この作品の中二病を中二病ではないと認めたがらないw
まぁ中二病の定義とかになると、別段この作品と関係なくなるのですが。
個人的には、
中二病って子どものごっこ遊びと変わらないと思うので、わざわざ「素直にああいう風に振る舞えるのが素敵」とか「抑圧から解放されたかった」みたいな、そういう理屈付けはあんまりいらなかったんじゃないかなー、と。六花の中では、単純に前付けなしの「かっこいいと思った」から始めて、演じているうちにごちゃごちゃとお父さんの物語をくっつけちゃった。そんな気がしないでもないのです。
そういう憧れから話を始めるなら、これは別段中二病である必要はないわけで、看板に偽りありと言いますか、
タイトルが『偽物語』でも違和感ないかと。
まぁ、ガジェットとして中二病を選ぶのは、それはそれで自由なので、水掛け論にしかならないのですけどw
聞き流しといてください。
そういえば、最後にしたり顔(顔見えないけど)でナレーションかました天の声、あれはいったい誰なんでしょう?いったい誰の意思を反映して喋っていたのか?そもそも、あれは誰だ?
高二病か?大二病か?あのナレーションがあるせいで、なんかあの世界が歪に見えますね…1話もそうでしたけど。話してる内容が、全部わかったようなので、なおさらに。
なんか実は重要な役割担っていた勇太くん。
彼が一番煮えきらなくて、なんだかなぁと思わせてくれます。前回「モリサマーにビンタされないかな」とか書きましたが、「浅いのよ」とか言われるだけで済んじゃったし、凸守なんかもっと辛辣に彼に当たっていい気すらしますw
中二病をやめろと言ったり、中二病で呼び戻したり。
なんだか都合のいい奴だな…という印象がどうにも拭えないのです。
六花は彼にそこまであーだこーだ強く言ったりすることができないキャラクタゆえ、全て彼の胸三寸で話が進むので、なおさらです。
なんか違和感があるならもっとよく考えろ、間違ってると思うなら早くやり直せ、やり直せるなら早く動け、と。
人の生き方を左右する物言いをしていることを、自覚してほしい、と。
まぁ、劇中では彼も16歳かそこらなので、そこまで言うのは酷なんですけど。
この件から得るべき教訓は、
人は失敗してもやり直すことができるということですかね。すんのところで間に合った印象ですが。
とにかく、スタッフのみなさま、お疲れ様でした。意外といろいろ考えさせられたな…。
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テーマ:中二病でも恋がしたい! - ジャンル:アニメ・コミック
- 2012/12/20(木) 03:27:22|
- アニメ感想・考察(Ver.2.0)
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