そんな回想録。
幼いころは、ひたすら『ウルトラマン』(初代)の再放送や『ウルトラマンティガ』を見ていた。同じように、『ゴジラ』(平成VSシリーズ)も、レンタルして見ていた。
当時、幼稚園とか小学校低学年の自分は、特にストーリーなんか気にすることもなかった。テレビの画面の中には、毎週毎回、見た目に新しく、おどろおどろしく、愉快な怪獣たちが目まぐるしく登場しては、消えていった。見ているだけで楽しかった。次はどんな怪獣が出るのかな。どんな力を持っているのかな。そんなことを想像しては、始終ワクワクしていた。
見ているだけで欲求は満たされた。見ていれば怪獣たちは登場し、自慢の力を披露し、ウルトラマンやゴジラの光線技を受けて、木端微塵になる。そして欲求はリセットされた。次はどんな怪獣が出るのかな。どんな力を持っているのかな。
このころ、こういった特撮モノに対しては、戦闘シーンにしか興味がなかった。自分の興味・関心を満たしてくれるのその部分だけだったのだから、当然と言えば当然の結果だろう。30分番組だったら正味10分程度の分量しかない。それ以外の部分は切って捨てていた。
その結果、話の筋はわからないし、どういう展開なのかもてんでわからなかった。それでも楽しかった。目に見える範囲に、毎週変わる怪獣がいれば、それで事足りたのである。
その傾向が今もあるように思えてならない。
今だってたまに特撮は見るが、だいぶアニメにシフトしてきた。しかし、その中で自分はいったい何を見ているのか。毎週変わるキャラクタの表情、セリフ。そんな表面的なものしか見ていないんじゃないのか。「萌え豚」だとか言って、そんな自分を安易に受け容れようとしているんじゃないのか。表面をなぞることばっかり覚えて、消費者根性にまみれているんじゃないのか。小説を読むときもそうだ。古典を読むときもそうだ。自分は表面にばかり留まっていたのではなかろうか。表面をなぞる。欲求はリセットされる。次はどんなキャラが出るのかな。どんな表情を持っているのかな。
それでは意味がないだろう。人が脳みそを持っている意味がない。意義もない。いきなり本質を見ることや、解読することが可能だとは思わない。思わないが、不可能ではないだろう。やろうとする意味はあるはずだ。意義もあるだろう。お客様に甘んじるのは、この世で最ももったいないことじゃないか。
あのころ画面を賑わしてくれた怪獣たちだって、それぞれにストーリーの中で生き、言いたいことがあっただろう。小さな阿呆だったあのころに比べて、今の自分が変わっていないのだったら、怪獣たちに申し訳が立たないじゃないか。まずは一つ。「考える」ことをしよう。そう反省する。
そんな回想録。
- 2011/05/17(火) 11:00:00|
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