行こう。さよならを知るための旅だ。というわけで、去る某日、新海誠監督の『星を追う子ども』を見てきました。
新海誠作品は、『秒速5センチメートル』と
信濃毎日新聞のCM以来、これで3作目です。
簡単に文字に起こしてみましたので、興味のある方は追記から。ネタバレ注意。見てない人は早く見てこい!w
いやはや、面白かったなぁ。
しかし「面白かった」だけじゃ、どうにも面白みに欠けるので、以下適当につらつらと。
新海作品の美しい背景美術は健在。やっぱりこれがなきゃ。
アニプレッション!!のこの記事の一部でも、新海作品が紹介されていたので、参考までに。
しかし、本当にきれいだよなあ。山間の風景とか、天の川が雄大な夜空とか、ただただ感心するばかり。「だだっ広さ」を感じさせる風景がうまいと思う。この人、長野県の出身なので、少なからず長野の風景を参考にした部分もあるんだろうなぁ、なんて邪推。筆者も長野県出身なので、同じ長野県出身の友人とこの映画見に行った際に、「『星を追う子ども』の前半舞台の「小渕」は、「小渕沢」から来てるんじゃね?」と指摘され、そういやそうかもしれん。小渕沢行きの電車とか、ちょっと前までは至極見慣れた光景だったのになぁ(自分は自転車通学だったけど)。思い至らなかったことが恥ずかしい。今度帰省した時に行ってみようかしらん。でも小渕沢って山梨県なのよね。あと、信州米が出てきたときはちょっと笑ったw
で、内容。
参考までにあらすじを載っけておくと
ある日、父の形見の鉱石ラジオから聴こえてきた不思議な唄。
その唄を忘れられない少女アスナは、地下世界アガルタから来たという少年シュンに出会う。2人は心を通わせるも、少年は突然姿を消してしまう。
「もう一度あの人に会いたい」そう願うアスナの前にシュンと瓜二つの少年シンと、妻との再会を切望しアガルタを探す教師モリサキが現れる。
そこに開かれるアガルタへの扉。
3人はそれぞれの想いを胸に、伝説の地へ旅に出る―。(公式サイトより)
ってな感じ。まあこの記事見てる人は、きっとみんな「見てきたぜ」って人ばっかりだと思うので、要らなかったかな?
個人的に、このアニメは、
「過去に囚われすぎるな」ってことが言いたかったのかな、と。
今生きている人は、いつか必ず死ぬ。それが遅いか早いかの違いしかない。そんなセリフが劇中でありました。それは仕方のないことですし、受け入れなければいけないこと。それは色々な媒体の作品群でも語られてきたことです。
もうこの世のどこにもいなくても。どこに行ったって逢えなくても。人は、それを受け入れて、目の前の道を歩まなければいけません。
それに忠実に従ったのが主人公のアスナであり、シンであり、シュンでしょう。
アスナは「もう一度逢いたい」の気持ちでは、最後までたどり着くことができませんでした。あの最後に出てきた洞穴(名称失念)の崖も、途中で断念しました。
シンは、セリフで
「今生きている人間の方が大事だ!」と言ってましたね。グッと来たのでセリフ太文字で書いてみました。
シュンも、自分がもう死ぬって事実を受け入れた上での、「地上へ行く」という行動だったのでしょう。
一方、大人。
モリサキは、死んだ妻に逢いたい、その一心でアガルタの深奥を目指します。
「やっぱり忘れられなかった」、その思いも、やはり人間ならばあって当然のもの。
ただ、モリサキはそれに囚われすぎた。固執し、執着し、追い求め続けた。妻の願いとは裏腹に。
だから代償に、視力を奪われたんじゃないでしょうか。決して、その思いを持つことは悪いことではないけれど。
この二項対立に当てはまらないのが、アスナの母親。
愛する夫を亡くしながらも、アスナのために、夫の死を受け入れながらも生きている。このキャラクタこそ、この映画が目指す形の結晶なのかな。
子どもは星を追う。手に届かない、あの空の星を。もう届かないあの人のことを思いながら。
こんなところかな。それじゃ。
- 2011/05/26(木) 11:00:00|
- アニメ感想・考察(Ver.2.0)
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